中尾忠次、藤田忠光兄弟について

太刀 佐国忠次

年期が無いのでどの年代に作刀されたものか不明ですが、姿、焼刃共にすっきりと流石に上手です。

 銘鑑および刀工大鑑によると、忠次は「本名中尾三治郎、明治43年生。桜井正次門、昭和14年堀井俊秀に入門。海軍受命刀工。佐賀県多久市。」
 忠光は「吉野源吾(誰の事か)門人。昭和7年大山鍛刀所入門。昭和12年兄忠次と共に佐賀市鍛刀所を創設。」
とあります。

 

 忠次については別に新版日本刀講座に伝習所出身である旨記載あり。

 

 各書籍ごとに情報が細切れになっていますが、「北越刀仙「審査餘錄」『日本刀及日本趣味』7巻4号(昭和17年4月号)中外新論社 26-27頁」にこれらをある程度まとめるようなものがあったので、以下引用。

 

「…今回の作品中で目に付く躍進を示したものゝ一に中尾忠次、藤田忠光の兄弟がある。
此の兄弟は帝展入選の人々であるが、當時は兄弟の雇主が兄弟に洋鉄で肥前風の短刀を作らせ研と巧妙な技術で鍛錬刀と見せ遂に入選したものであつたが、其姿や刃紋等で當時既に非凡の技量のあつたことは争はれなかつたのであるが、栗原昭秀氏は其技量を惜み昭和九年六月雇主梅崎吉兵衛氏と、兄弟二人を東京に呼び寄せ、梅崎氏を説得した、其席には梅崎氏等の招致に盡力した岩崎航介氏、及新作日本刀展覧會審査の爲め上京した小山信光氏、末次繁光氏、守次則定氏、越水盛俊氏、井上包貞氏等が居合せた。
栗原氏は梅崎氏に対して、この二人は刀匠界の神童で、将来日本屈指の名刀匠と爲て鎮護国家の霊器を作り君国に報ずべき人々である。それを洋鉄刀等を作らして金儲けの道具にすると云ふことは悪いことである、そんなことを仕て居れば天罰覿面に来る、速にこの二人に鍛錬刀を作らせ、将来の大発展を期せしむべきであると説いた。
梅崎氏も忽ち納得したので、岩崎航介氏の仲介で、兄弟二人は改めて日本刀鍛錬傳習所に入門の形式を取り、三人を其儘赤坂館に滞在せしめ、鍛錬及卸鋼の作り方を教授し、各短刀二十振づゝ作らせ帰郷させたが、其短刀は今尚ほ傳習所に残て居る。
次でこの兄弟の技量を認めたのは武富少将で、同少将は栗原氏とも相談して二人を堀井俊秀氏に入門せしめ、一年餘必死の研究をさせ、昨年玉川河畔に鍛錬所を新築して、茲で餘念なく鍛錬出来やうにして呉れ、絶へず指導激励されたが、剣界人の期待は忽ち實現されて、遂に今回の出品中屈指の名品を出すに到つたもので、この兄弟が今日迄の艱難辛苦は容易なものでは無く實に刀匠立志傳中の雄たるもので、栗原、堀井の両先輩は勿論、特に武富少将及後援者諸氏の喜びは一方ならぬものであらう。」(引用終わり。原文は改行無し。)

 

 これは、昭和17年開催の第七回新作日本刀展覧會における審査余録中に記載されているもので、文章全体の1/6以上を占める中々気合いの入ったものです。(著者の北越刀仙は審査員の一人?北越なので新潟の刀匠か。)

 

まとめると以下の様になります。

 

・二人は昭和9年時点(忠次約24歳)でえらい上手かった。
・帝展に洋鉄鍛で入選している(昭和9年第15回帝展美術工芸部の事か)
・雇われで洋鉄による肥前風の刀を作っていた?
・当時の栗原昭秀はじめ刀剣界トップからかなりの期待を受けていた。
・昭和9年上京したタイミングでそのまま伝習所入門。のち帰郷→昭和12年佐賀市鍛刀所創設?
・武富少将が後援し、堀井俊秀に入門。(武富咸一。海兵27期。武富家は鍋島藩出身のため佐賀繋がり?忠次が海軍受命刀匠、山本五十六の刀を鍛えたのもこの縁からか。)
・昭和16年玉川(多摩川)河畔に鍛刀所。「於東都…」銘はこれ以降?

 

 この紹介文中に桜井正次の名前が全く出てこないのも興味深いです。昭和9年時点でかなりの技術がある事から、刀匠としての最初の師匠が桜井正次あるいはその門人なのかも知れません。


 いずれにせよ、各資料に記載されている内容の時系列が分かる上、雇われ刀匠→刀剣界の重鎮から東京へ呼ばれた上そのまま伝習所に入門→地元つながりの海軍有力者に認められ、当時最高の刀匠堀井俊秀に入門→帰ってきたら東京に鍛刀所新築というドラマの様な展開が面白いです。

 

弟の忠光の資料が少ないので、追々調べてみようと思います。

昭和の刀匠は資料があまりないので調べ出すと楽しいですね。
日本刀及日本趣味は国会図書館で読めます。

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